先日、大阪の国立国際美術館で開催されている、クリスチャン・ボルタンスキーというアーティストの回顧展を観に行きました。
こちらの記事は、記事公開時点で会期中(2019年5月6日迄)の展示を扱っています。また、展示の内容についても触れているので、記事をお読みになる際はその点をご了承ください。
この回顧展へ行くまで、私はこのアーティストのことを知りませんでした。
ですが、行ってみればそこには脳の奥に入り込んでくるようなオーラを持った作品が並んでいました。
私はそんなに美術館に行く方ではないのですが、前回美術鑑賞したときよりも期間が空くとどうも勿体ないことをしているんじゃないかという感じがしてしまうんですよね。
この期間中に実は興味深い展示があったんじゃないかとか、好きな題材を見逃してるんじゃないかとか。
気が向いたときにしか情報も調べたりしないので、余計にそう感じます。
そんなサイクルで少し前に展示の情報を調べたりして、見つけたのがこの回顧展でした。
色々並ぶ情報のなかで、クリスチャン・ボルタンスキー展の導入の文に惹かれ、このアーティストがどういう方かもWikipediaを軽く読んだだけで、この展示を観に行くことを決めました。
入り口から一気に違う空間になっていました。ホラーが大の苦手な私は、入ってすぐの展示の雰囲気に最初はとてもビクビクしていたのですが、数歩進んでそれは単なる勘違いであることに気付きました。
展示物の一つ一つが違った雰囲気を持ちつつも、それがまとまって一つの大きな空間を作り出していました。
心臓音という作品では、狭い空間に大きな心臓の音が響いてそれに合わせて照明が点滅しており、規則的に見せかけて不規則な鼓動がどことなく不安定に感じさせました。
一角では、壁際に四角い缶がたくさん積まれ写真が貼ってありました。この死んだスイス人の資料という作品が今回一番大きく印象に残っています。
中になにが入っているかは分かりませんが、まるで人間という生物の命を一段高次元から俯瞰しているようでした。
ぼた山という作品では、黒い服がそれこそ視線より高く無造作に積まれており、単純にその量に驚きました。
保存室というタイトルの作品が複数あり、写真の周りにいくつかのライトが点いているのですが、その電源コードが隠されずに写真の前面を通って垂らされ、それから束ねられて壁裏に通されていました。
わざわざそのように配線するのには意図があるように思えたのですが、私にはちょっと分かりませんでした。
黄昏という作品は、多くの電球が灯っており会期中に一つずつ消されていくようです。私が訪れたときは半分ほどが点灯していました。
これは会期を通して経過で見ることでより楽しめると思うのですが、この日だけ見ても、終わりが見えることで、いつかはすべてのものに終わりが来ることを意識させられました。
黄金の海という作品は、パンフレットを見ると金の幕が床一面に敷かれているのが分かるのですが、実際には照明の関係か、反射した色が血の色にもマグマの色にも見えてとても妖しい雰囲気でした。
ここに書いた数倍の点数の作品があったのですが、特に印象に残ったものだけを書き記しました。
パンフレット記載のプロフィールによると、歴史や記憶、死や人間の不在と存在の痕跡をテーマに創作活動をしており、自らを「空間のアーティスト」と形容しているようです。
私自身そのテーマに興味があって回顧展に訪れたのですが、期待以上に印象に残る展示でした。
ファーストインプレッションで美術館に足を運ぶのもなかなかよい出会いがあるものですね。
今後も気になる展示があれば積極的に訪れたいと思います。