最終更新日 2020年8月24日
無職になって半年が経ち、いよいよ失業給付も貯金もなくなってきたところ。
私はようやく仕事を再開しようと重い腰を上げました。
なぜそんなに働きたくないのか、働きたい人にとっては意味が分からないのかもしれません。
同様に、私は働きたい人の意味が分かりません。
「働きたくない」と思っている私の考えと、現在の状況についての感覚を書いていきたいと思います。
目次
- 無職の期間はとても楽しい
- 復職を決めたきっかけ
- 仕事をするということへの認識
- まとめ
1.無職の期間はとても楽しい
これは個人的な私の印象なのだけど、インターネット上の無職になった人の記事や書き込みなどを見ていると、無職生活が楽しいという人と、呵責に苛まれる人と、大きく分けて二つに分かれているように思います。
私は圧倒的に前者の、無職生活が楽しい人、です。
なぜかって尋ねられりゃ、やりたいことがあるのにやりたくもないことをわざわざしに行かなくていいからです。
たびたび触れているけど、私の趣味は創作。小説を書いたり絵を描いたり。某所で公開したりしているけど、ここではちょっと伏せます。
そして新たに加わった語学学習。
絶賛学習中の中国語と、その片手間にちまちま学習中のロシア語。
これら二つの趣味が一日中好きにできるわけなのだから、そりゃあ無職生活は楽しいです。
2.復職を決めたきっかけ
近いうちに私は契約社員として働き始めます。
きっかけは簡単、単純に生活していくお金がないからです。
ちなみに、前項で述べた「呵責に苛まれる」ことは一切ありませんでした。
友人や他人に胸を張って「無職です」と言えるくらいにうしろめたさはありませんでした。
なんならこの前、ちょっとした交通事故を目撃して救急車を呼んだのですが、その後やってきた警察官に通報者として対応する際に職業を聞かれ、なんの気後れもなく「無職です」と言いきりました。
「会社員ですか?」という警察官の言葉に、「いえ、違います」と臆面もなく言いました。
3.仕事をするということへの認識
「やりたいことをやって生きる」とよく言いますし、そう生きることでむしろ能力が発揮できて、生活に必要なものは手に入るとも聞いたことがあります。
でもそれは戦略を立ててこその話で、ただ趣味程度に好きなことの好きな部分だけやっていても生活できるわけがありません。
まさに私はそう生きて、ストレスこそ皆無で人生で一、二を争う幸せな期間でしたが、失業手当以外の収入はなく、就労せざるを得なくなりました。
仕事と言うのは、価値を与えて対価を頂くことだと私は考えてます。
30代ノースキルの私が、どこかの会社に所属していきなりそんなことが出来るわけもなく、さらにいえば企業側がそんな人間を要所に配置するわけもありません。
私は社会にとって無価値であり、よって経済的に豊かになるわけがないのです。
興味があったから始めた語学学習ですが、少なくとも小さなスキルの一つになればという思いが含まれていたのも事実です。
けど私の頑張りが足りないのか、半年学習し続けてきた人間の到達度とは思えないレベルの低さではないのかと、私自身感じています。
私は誰にも価値を届けられないのです。
しかし私は、誰かに価値を届けられるような人間とも思えません。
そんな私が、誰かに価値を与えることで成り立っているこの社会で、仕事をすることのどの点に価値を見出したらいいのでしょうか。
どの求人を見ても、私には担えないような業務ばかりで、最低時給で募集のかかっている清掃の仕事なら、私の身の丈に合っているのではと感じています。
しかし、それでは生活費を賄うには心許なく、背伸びをして、頑張って、なんとか、耐えられそうな仕事を探しました。
4.まとめ
今回のような散文を書くことになろうとは、このブログの運用意図からは思いませんでした。しかし、吐き出す場所が欲しくてこのような記事を書いてしまいました。
以前勤めていた職場は、人間関係も良く、仕事内容も自分に合っていました。
ただ、創作がしたい私にとって、その拘束分の時間が奪われるのがストレスとなって積もっていくのも感じていました。
私は創作においても誰かが価値を感じてくれるような作品を生み出せてはいません。
このまま、不本意に労働し、残りの少ない時間で創作し、結局誰からも価値を感じてもらえないまま残りの命を過ごすのだろうなと考えると、だったら仕事などせず、誰にも認められなくても、自分だけは満足できるよう残りの人生を創作に注ぎ込んで使いきりたいなと、私は思っており、だからこそ仕事に行くのが好きではないのです。
追記
ただ当然のことながら、仕事の最中は業務に最善を尽くしています。
もし趣味以上に仕事に没頭できればその時はこの気持ちも消えてなくなるのでしょうか。
私の性格からしてそうなったら多分、筆を折るような気もしますが。